2026年6月5日、カンヌ国際映画祭で4冠を受賞した映画【SIRAT】が公開されました。
観る予定がない映画だったのですが、SNSでのポストを見ると「聖書の話ではないか」という声があったので、日曜学校に通っている身としては観ておいた方がいいと思い劇場に向かいました。
カンヌでサウンドトラック賞を受賞した【SIRAT】は、臨場感のある音響施設が整ったDolby Cinemaで上映されていて、臨場感たっぷりな重低音で会場が浮いているかのような感覚に襲われました。
最初はレイブ会場の観客達が、クラブミュージックで踊りまくっていて一体何の映画だろうと思っていました。
しかし、建物の隙間から十字架のような光が差し込んでいるのを見て、この映画では神に捧げる犠牲が発生するのかなと漠然と考えていました。
そして、この映画を鑑賞した後、この話は旧約聖書のイサクとアブラハムの話と同じだと気付きました。
本記事では、映画【SIRAT】と旧約聖書のアブラハムとイサクの話を照らし合わせて考察をしていきます。
ネタバレありの考察となりますので、鑑賞してからご一読頂ければと思います。
【SIRAT】のあらすじ
父ルイスとその息子エステバンは、踊り狂うレイブパーティーの観客達に写真を見せて、行方不明になってしまった自分の娘を知らないか聞いてまわっていた。
どの客も知らないと首を振るが、あるグループに話しかけると、もしかしたら彼女はここよりも先の砂漠の向こうのレイブ会場に行ったのだはないかとクリスに話した。
クリスは一縷の望みを感じたが、急にレイブ会場に兵士たちがやってきて、紛争が始まったから観客達に撤退するように命令した。
仕方なくクリスも撤退するために車で列に並ぶが、彼の車の前方に並んでいた車が二台横道に外れて走り出した。
その車は先ほどクリス達に、次のレイブパーティーに行くと話していたグループだった。
エステバンに急かされ、クリスも列を抜けて二台についていきましたが、彼らはクリスの乗る車では砂漠を超えるのは無理だと言いました。
それでもいい、娘がいるという手がかりを逃したくないと、クリスとエステバンは後戻りができない旅が始まりますが…。
なぜ彼らには腕や足がないのか
クリスとエステバンがついていったグループは、女性二人男性三人のグループでした。
彼らはダンスをすることに夢中で、LSDなどの薬物を使用したり、体には刺青も入っていて一見すると近寄りがたい人達でした。
極め付けは、トナンという男性は左足から下が欠損しており、ピギという男性は右手がありませんでした。
マタイによる福音書18章8節には『もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。』と書かれています。
何があったのかは定かではありませんが、おそらく二人は何かしらの罪を犯してそうなってしまったのではないかと、鑑賞中考えていました。
しかし、彼らは意外と優しいところもあり、クリス達の車を牽引してあげたり、エステバンの髪を切ってあげたり心優しいところがたくさんありました。
お互い食材を分け合ったり、悲しみを分かち合ったり、クリスとエステバン達は彼らと家族のような関係になっていきます。
また、体が欠損していながらも音に乗って踊っている姿には不思議な感動を覚えました。

山を登る意味とは
困難を乗り越えながら、クリス達は砂漠の向こうのレイブ会場を目指しますが、兵士達が警戒を強めているのを見て、危険な山道を登ることにします。
映画【SIRATシラート】は、サハラ砂漠で撮影されたと言いますが、彼らの通る山はまさに断崖絶壁で見ているだけで足がガクガクと震えてしまいそうな絶景でした。
聖書の中で山を登るという行為は大変重要なもので、モーセが十戒を神から与えられたのも山でしたし、神様と交渉する場所は旧約聖書の時代から山だったと言われています。
古代の預言者達は、神からありがたいお言葉を承るために山を登り、若い子羊をその手で抱え山の頂上に着いたら自らの手で屠って神に与えなくてはいけませんでした。
当時羊という動物は、毛を刈って洋服に使ったり乳を食料として加工したり、大変重要な家畜であったそうです。
その若い家畜を、神様に与えることで神への忠誠心や信仰心が試されたそうです。
基本的に神様は犠牲の子羊を所望されますが、旧約聖書の話の中で唯一神が人間を犠牲にするように命令された話があります。
それは、アブラハムとその息子イサクの話でした。
自分の息子を生贄に捧げようとしたアブラハム
預言者アブラハムは、後に全てのユダヤ人の父となる偉大な人物ですが、正妻のサラとの間に子供ができず神に祈っていました。
神はアブラハムの願いを聞き、高齢であるにも関わらずアブラハムとサラの間にイサクという男の子を授けました。
アブラハムはイサクを大層可愛がりましたが、神様はアブラハムを試すために、イサクを生贄に捧げるように言います。
アブラハムは躊躇しましたが、神様からの命令に従うしかなく、イサクと一緒に山を登りました。
この旧約聖書のアブラハムとイサクの話は、そのまま映画【SIRATシラート】の話の流れそのままではないでしょうか。
イサクは山に登る途中で、生贄に捧げる子羊がいませんと父親に言うのですが、来た道を引き返すことはありませんでした。
エステバンもまた、躊躇する父を「速く行かないと!」と急かし、砂漠を越えて危険な旅に出るように促しました。
クリスに故意はなかったものの、山道の途中で車に戻れと言ってしまい、結果エステバンは車と一緒に谷底に落ちていきました。
さらにエステバンは、聖書の聖人ステファノと同じ名前で、使徒行伝で一番最初に殉教する人物でした。
エステバンが一番最初に殉教することは、既に暗示されていたのかもしれません。
エステバンはもしかして生きている?
実は、イサクとアブラハムの話には続きがあり、アブラハムがイサクを捌こうとナイフを掲げた時、神様はそれを止めます。
アブラハムの信仰の深さを知った神様は、イサクを生かされ、その後彼らの子孫はユダヤ人として繁栄していきます。
もしも旧約聖書の通りに映画【SIRATシラート】を解釈するならば、エステバンは生きているはずで、実際にクリスはエステバンが死んでいるところを見ていません。
最後にクリスが安全な道を歩くことができたのは、クリスが神様に認められた存在だったからかもしれません。

さいごに
映画【SIRATシラート】を、イサクとアブラハムの話を参考に考察してきましたがいかがだったでしょうか。
難解で退屈だと言われがちな映画ですが、旧約聖書の話を元にしていると考えると、物語にぐっと入りやすくなるのではないでしょうか。
新しい視点で映画を見れるようになってもらえれば幸いです。
しかし、劇中では音響が良すぎて椅子から3回くらい飛び上がったこともあったので、それなりの覚悟を持って鑑賞することをオススメいたします。
最後まで読んでくれてありがとうございます。


コメント