2004年に公開された映画【パッション】は、イエス・キリストが十字架にかけられるまで受けた苦難を、聖書通りに詳細に描いた作品で、当時大きく話題にに上がりました。
鞭打ちの描写や、十字架にかけられ手に釘を打たれる際のイエスの苦悶の表情は凄まじく、自首者が続出したと言われています。
本記事では、映画【パッション】をよりわかりやすく知るために、なぜイエス・キリストが処刑されなければならなかったかを解説していきます。
イエス・キリストはどんな人?
映画【パッション】では、鞭で打たれるイエスを見て、イエスの母親であるマリアが涙するシーンが見られます。
マリアの回想では、木材でテーブルをつくるイエスの姿があり、ごく普通の青年のようだったので新鮮に感じました。
イエスは、マリアがヨセフと結婚する前に、聖ガブリエルから受胎告知を受けてみごもった子でした。
ベツレヘムで生まれたイエスは、幼児大虐殺を逃れ、大工の父親ヨセフの手伝いをよくする聡明な青年に育ちました。
また父ヨセフが、旧約聖書の時代に偉大な王であったダビデの子孫であったので、イエスも同様にユダヤ人を率いる救世主だと皆に話すようになります。
イエス・キリストが生きた時代はユダヤ教が信じられていた
映画【passion】では、頭に頭巾をかぶり、高級そうな貴金属の宝石を身につけた、明らかに服装にお金がかかっていそうな人達が登場します。
彼らはファリサイ派の律法学者達で、彼らの服装は聖書に書かれたまま決められており、ユダヤ教の権力者達でした。

厳しい戒律
ユダヤ教の戒律は厳しく、現在でも安息日には一切の労働を行わず、彼らはエレベーターのボタンを押すのも躊躇うと言われています。
また、豚肉を食べてはいけなかったり、イカや甲殻類を食べてはいけなかったり禁止事項が多い宗教でもあります。
祈りの儀式の方法や、日々の生活の行動、さらに罪を犯してしまった場合どのような処罰を与えるかなどを全て定めてありました。
これらの戒律を勉強し、人々に教えていたのが上記の服装をした律法学者であり、彼らは徐々に高慢で偉そうな態度が目立つようになっていきました。
イエスは律法学者やファリサイ人達が、「偽善者」「災いである」とマタイ書23章ではっきり指摘しています。
自分を低くするもの、身分が低い人でも神様を信じる心が大切だというイエスに、律法学者やファリサイ人達は強い警戒心を持っていました。
厳しい罰
前述しましたが、ユダヤ教は「目には目を、歯には歯を」という教えがある通り、罪を犯してしまった人にはそれ相応の罰を与えるようにと言われています。
映画【psssion】でも、一人の女がキリストの足元に投げ出されるシーンがあるのですが、彼女は売春婦でこのような女は石で打たれなければならないと聖書には書かれていました。
しかし、イエスは彼女に石を投げることはせずに「あなた達の中で一度も罪を犯したことがない人が石を投げよ」といい彼女を許してあげました。
このように、ユダヤ教の教えに反して罪人を許してしまったり、卑しい身分とされる徴税人と食事をとったりするなど、当時の人々からイエスの教えはすぐに理解できるものではなかったのだと感じます。
イエスに対する強い警戒心
罪人を赦し、戒律よりも神様を信じる信仰が大事だというイエスの教えは、ユダヤ教を信じている人達にはなかなか受け入れ難い教えでした。
しかし身分が低い人にも神様の教えを説き、分かりやすく隣人を愛し合すという慈愛に満ちたイエスの教えは、急速に人々に受け入れられていきました。
さらにイエスは、自分のことをユダヤ人を救う救世主(メシア)であると言ったことが、律法学者やパリサイ人達の逆鱗に触れました。
ユダヤ教では、主ヤハウェのみが唯一の神であり、他の神を一切信じてはいけないと言われていました。
彼らはユダヤ教の戒律では、死刑は大変重い罰となるため、ローマ総督のピラトにイエスを引き渡し極刑にしてもらうように扇動しました。
エルサレムの人々がイエスを神の子だととして招き入れる
映画【passion】では、イエスが十字架を背負っている苦しみながら歩いている時、朦朧とする意識の中でイエスが人々から満面の笑みで手厚い歓迎を受けた回想が一瞬入ります。
これはマルコ11章で、イエスがエルサレムに来た時の様子です。
人々はイエスを神の子だと受け入れ、ロバに乗ってやってきたイエスを歓迎し、自分たちの上着や木の枝を敷いてイエスの前に道を作ったと言います。
また、神殿を自分の家だと言い、子供達までもがイエスのことを「ダビデの子」だと話しているのを聞いて、律法学者達の怒りは頂点に達したのだと推測されます。
イエス・キリストの贖いとは
イエスは人々の罪をあがなうために、十字架に処せられることを知っていました。
ユダヤ教の教えでは、罪を犯してしまった場合は子羊などの犠牲を神に捧げることで、罪をつぐなうことができました。
しかし、イエスが犠牲になったことで血による贖いは行われなくなり、人々は祈りによって罪を悔い改めることができるようになりました。
映画【passion】冒頭のゲッセマネでの祈り
映画【passion】の冒頭では、イエスが三人の弟子を連れてゲッセマネの園にいき、お祈りするところから始まります。
そこでイエスは、全人類の罪をその身に受けて苦しみ、できることならこの苦しみを取り除いて欲しいと神に祈ります。
その後十字架にかけられてイエスは、三日後に復活します。
このことで、全人類の罪が許され復活することが約束されたのです。
さいごに
映画【passion】を視聴しながら、なぜイエスが十字架にかけられなくてはいけなかったかについて解説してきましたがいかがだったでしょうか。
全て聖書のとおりに描写されているので、時には目を背けたくなるようなシーンもありますので、血がたくさん出る映画がダメなら無理にいる必要はないかと思います。
イエスが十字架に磔けにされる場面は、マタイ、マルコ、ルカの福音書で読めるので、興味があったらぜひ読んでみてくださいね。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
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