キリスト教徒の教えは、まず神様が人々に与えてくれた自然を愛することを尊ぶことから始まります。
しかしそれは、あくまで聖書の教えや日々の祈り、そして祭司から受ける洗礼や安息日を守る教えから来ています。
【チ。-地球の運動について-】の第6集では、聖書を信じず祈りも教会も必要とせず、ただ神様が与えてくれた自然を愛して敬うシュミットが登場します。
シュミットのような自然主義者が存在したのか、今回調査してみたのですが、12世紀から13世紀の南フランスに実在したアルビ派がシュミットの思想に近いことがわかりました。
聖職者が免罪符の発行や、金銭的を貧者から搾取する中、その体制に反旗を翻したアルビ派は十字架を廃止し、聖餐や祈りを行うことを止めました。
本記事では、【チ。-地球の運動について-】のシュミットの言動とアルビ派を比較してまとめてみました。
自然信仰に慣れ親しんできた日本人にとって、シュミットの太陽信仰は比較的受け入れやすいものではないかと感じます。
聖職者や教会を排除したアルビ派とは?
12世紀から13世紀の南フランスにいたとされるアルビ派の教徒達は、カタリ派とも呼ばれ商売を嫌い職人として日々の生活をすごしていたそうです。
彼らは、十字架を燃やし自分たちの住んでいる村から徹底的に教会や聖職者を排除しました。
カルト教団が人里離れた場所に、自分たちのユートピアを築いたりするように、ある種過激な取り組みであったかもしれません。
しかしアルビ派の教徒達は、同じ頃聖職売買で私服を肥やしていた聖職者と異なり、品行方正な生活を心掛け、熱心に働いていたそうです。
なぜ十字架を燃やした?
そもそもの話なのですが、なぜキリスト教徒は十字架に向かって祈りを捧げるようになったのでしょうか。
旧約聖書出エジプト記20章4節では、『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない』と書かれています。
そして、牛の像にむかってお祈りをしてしまった信徒達に、預言者モーセは激しく怒っていた描写があります。
また、新約聖書でもヨハネの手紙第一、5章21節では『偶像を警戒しなさい』とも言われています。
このように聖書で言われているのにも関わらず十字架がキリスト教徒にとっての祈りの対象となる理由は、十字架はキリストが贖いの象徴であり、キリスト教徒にとっての救いのしるしになっていったからです。
しかし、十字架というシンボルは信徒の税金や献金を吸い取り、より豪華で美しいものになり教会の富を象徴するものでもありました。
貴重なものは現在でも美術館に保管されているほどです。
アルビ派の信徒たちは、十字架はキリストを虐殺した象徴として、【チ。-地球の運動について-】と同じように実際に集めて燃やしたという記述も残っているそうです。
異端排除のために発足されたアルビ十字軍
アルビ派をはじめとした異教徒達は、その清い生活ぶりや信仰心の厚さなどから人々に尊敬され、むしろ貴族達から積極的に援助されてきました。
各領主達に守られたアルビ派達は、カトリック教徒も排除することは難しいほどだったそうです。
シュミットの言動や教義も、一見無理矢理な論理にみえますが、筋が通っていておりよく考えるとそういう生き方もあるなと納得できる信念を持っています。
しかし、異端対策に力を入れた教皇イノケンティウス3世は、即位後南フランスに優秀な修道士を派遣し、アルビ派の改宗につとめました。
結果、改宗は失敗に終わりトゥールズに派遣された法皇使節が殺されてしまうという事件が起きてしまい、イノケンティウス3世は異端を排除するためにアルビ十字軍を結成します。
こちらの事件については、【チ。-地球の運動について-】の第七集でもふれられています。
南フランスと敵対する、北フランスの騎士達によってつくられたアルビ十字軍達は、20年もの間熾烈な戦いを繰り広げ、とうとうアルビ派の信徒達は討伐されてしまいました。
その虐殺は非常に残忍なもので、女性を井戸の中に投げ込み石を投げて殺したり、改宗を申し出た信徒ともども何十人も斬首を強行したり、徹底的にアルビ派は殲滅させられました。
自然主義者は神様を信じている
【チ。-地球の運動について-】では、1集から5集にかけては、ラファウやオクジー、バデーニのような聖職者など13世紀ポーランドにいたであろうキリスト教徒達が活躍します。
しかし、第6集からは比較的日本人の価値観に似ている、シュミットとドゥラカが物語の中心人物となります。
特にシュミットは、キリスト教の形骸化を否定し、聖書や教会での祈りや洗礼を必要とすることなく、
自然は神様がつくったものだと信じ1日を大事に生きています。
また、朝日を浴びる習慣があるシュミットは、初日の出をありがたいと思う日本人にも似通っているところがあると思います。
太陽信仰について
日本ではキリスト教の教えは、ほぼ浸透していないと考えられていますが、実は神様の概念は「おひさま」として日本人の心に強く息づいています。
子供の童謡で「ともだち讃歌」という曲が、子供向け番組でもよく歌われています。
この曲は、もともとアメリカの歌で「空にはおひさま、足元に地球」の部分は英語では「栄光あれ栄光あれ神を讃えよ」という歌詞になっています。
なぜこの曲を日本語に訳すとき、「神を讃えよ」の部分を「おひさま」に変更してしまったのでしょうか。
もちろん子供に受け入れやすい曲にしたかったという思いもあるかと思いますが、日本人がもともと太陽と親しんできた歴史があったからというのもあります。
日本の長い歴史を辿ると、天照大神は信仰の対象であり、自然と慣れ親しんで過ごすことを好んで生きてきたように思います。
また、遠藤周作の「沈黙」でも日本人が神様を太陽だと言い出したのを聞いた神父が、日本ではキリスト教は繁栄しないと絶望したと話しています。
それだったら、神様は太陽ということにしてしまったほうが、より神様を身近に感じることができるのではと考えたことで、このような子供の童謡が生まれたのではと推測されます。
さいごに
自然主義者であるシュミットが、アルビ派の思想に深く影響を受けていることについて調査してまとめてみましたがいかがだったでしょうか。
シュミットのキャラクターはとても魅力的で、アルビ派の品行方正で誠実な人柄を、そのまま物語で生かされているのが見事だなと感じました。
2024年11月から【チ。-地球の運動について-】のアニメが公開されましたが、早くシュミットの活躍を見たいと思っています。
また、異端審問についてより詳しく知りたい場合は、森島恒雄さんの『魔女狩り』を読んでみることをおすすめいたします。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
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